製造業の現場で「あの人がいないとわからない」という状況は珍しくない。長年の経験から培われた判断力や勘は、文書に残しにくく、退職とともに失われてしまう。こうした問題の本質を理解するうえで、野中郁次郎が提唱したSECIモデルは今も実践的なフレームワークとして機能する。本記事では、暗黙知と形式知の違いを整理し、知識変換の4ステップと、AIを活用した外部化の進め方を解説する。
暗黙知と形式知とは何か
形式知:言葉にできる知識
形式知とは、文章・数式・図表などで表現できる知識のことだ。業務マニュアル、設計仕様書、作業手順書、Q&Aドキュメントがその代表例である。誰が読んでも同じ解釈が可能であり、組織内で共有・保存・配布が容易という特徴を持つ。
暗黙知:言葉にしにくい知識
暗黙知とは、個人の経験・直感・感覚に根ざした知識で、言語化が難しい。熟練工が「音を聞いただけで設備の異常を察知する」能力や、ベテラン営業が「会話のトーンで商談成否を予感する」判断力がこれにあたる。
哲学者マイケル・ポランニーは「人は語れる以上のことを知っている(We can know more than we can tell)」と述べた。この言葉こそ暗黙知の本質を表している。
| 比較項目 | 形式知 | 暗黙知 |
|---|---|---|
| 表現形式 | 文書・データ・マニュアル | 感覚・直感・経験 |
| 共有の容易さ | 高い | 非常に低い |
| 具体例 | 作業手順書、設計仕様書 | 職人の勘、現場の判断力 |
| デジタル化 | 容易 | 困難・変換が必要 |
なぜ今、この区別が重要なのか
厚生労働省の調査によると、製造業において「技術継承に問題がある」と回答した企業の割合は86.5%で、全産業中最高である。また、2024年版ものづくり白書では、退職予定者の技能やノウハウを文書化・データベース化する取り組みを実施している企業が30.3%にとどまると報告されている。
(出典:2024年版ものづくり白書|経済産業省)
知識の約80〜90%が暗黙知として個人に蓄積されているとされるなか、この課題を放置すれば組織の競争力そのものが損なわれる。
SECIモデルとは何か
SECIモデルは、一橋大学名誉教授の野中郁次郎が1995年の著書『知識創造企業』(竹内弘高との共著)で提唱した知識創造理論だ。暗黙知と形式知が相互に変換・循環することで、組織に新たな知識が生まれるプロセスを4つのフェーズで説明する。
SECIとは以下の4つの英語の頭文字をとったものだ。
- Socialization(共同化)
- Externalization(表出化・外部化)
- Combination(連結化)
- Internalization(内面化)
このサイクルが繰り返されることで、個人の知識が組織全体の知識へと発展していく。
4つの知識変換プロセス
共同化(Socialization):暗黙知から暗黙知へ
共同化は、言葉ではなく体験・観察・模倣を通じて暗黙知を共有するプロセスだ。
職人が弟子に技を見せて学ばせる「見て覚えろ」式の教育がこれにあたる。現場での体験共有、OJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)、ベテランと新人が同じ作業に従事するペアワークなどが典型例だ。
この段階では知識はまだ言語化されていないため、共有できる人数に物理的な制約がある。
表出化/外部化(Externalization):暗黙知から形式知へ
外部化は、暗黙知を言語・概念・図表として表現するプロセスだ。SECIモデルのなかで最も重要で、かつ最も難しいフェーズとされる。
「なぜそうするのか」「何を見て判断しているのか」を言葉にすることで、個人の知識が組織に引き継げる形式知へと変換される。対話、隠喩、アナロジー、概念化などの手法が有効だ。
このフェーズこそ、後述するAIインタビューが大きな効果を発揮する場面だ。
連結化(Combination):形式知から形式知へ
連結化は、複数の形式知を組み合わせ、新たな形式知を生み出すプロセスだ。
社内データベースの統合、報告書の編集・整理、異なる部門間でのノウハウの統合などがこれにあたる。デジタル技術との相性が良く、情報管理システムやナレッジベースが活躍するフェーズでもある。
内面化(Internalization):形式知から暗黙知へ
内面化は、形式知を実践を通じて個人の暗黙知として体得するプロセスだ。
マニュアルを読んで学んだ後、実際に作業を繰り返すことで「体で覚える」段階がこれにあたる。シミュレーション訓練やロールプレイも内面化を促す手法として有効だ。内面化が完了すると、再びその個人の暗黙知として次の共同化へと循環していく。
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SECIサイクルが回らない組織の共通パターン
SECIモデルが機能しない組織には、以下のような共通点が見られる。
外部化が止まっている
最も多い停滞パターンが「外部化の壁」だ。ベテランに「マニュアルを書いてほしい」と依頼しても、「何を書けばいいかわからない」「時間がない」という返答で止まってしまう。
これは本人の努力不足ではなく、「問われなければ暗黙知は出てこない」という知識の本質的な性質による。人は自分が当たり前だと思っていることを、自発的に言語化することが難しい。
連結化だけが進んでいる
ナレッジマネジメントシステムを導入したものの、形式知同士の整理・統合(連結化)だけが行われ、現場の暗黙知が入ってこないケースもある。ツールは整っているが、中身が薄いという状態だ。
内面化で止まっている
マニュアルを作ったが、現場に浸透していない。読まれているが実践されていない。この状態は内面化の失敗を意味する。形式知が蓄積されても、実際の業務で使われなければSECIサイクルは途切れる。
AIインタビューによる外部化の効率化
外部化のボトルネックを解消する手段として、AIインタビューが注目されている。
対話が暗黙知を引き出す
2024年6月、ライオンとNTTデータは衣料用洗剤の生産技術領域において、熟練技術者の暗黙知を生成AIで形式知化する取り組みを開始した。AIが熟練者に対して体系的な質問を繰り返し、回答から暗黙知を抽出・整理するアプローチだ。
(出典:国内熟練技術者の技術継承に向け、生成AIを活用した暗黙知伝承に関する取り組みを開始|NTTデータグループ)
AIインタビューが効果的な理由は、問いかけという形式にある。白紙にマニュアルを書くよりも、質問に答えるほうが人間の認知負荷は低い。AIは以下のような問いを繰り返すことで、本人が意識していない判断基準を引き出す。
- 「その判断をするとき、何を最初に確認しますか?」
- 「新人がよく間違えるのはどの場面ですか?」
- 「うまくいかないと感じるのはどんな状況ですか?」
- 「昔のやり方と今のやり方、何が変わりましたか?」
AIインタビューの3つの利点
AIインタビューが従来のマニュアル作成と異なる点を整理する。
| 比較項目 | 従来のマニュアル作成 | AIインタビュー |
|---|---|---|
| 対象者の負担 | 高い(自分で書く) | 低い(話すだけ) |
| 引き出せる知識の深さ | 表面的な手順が中心 | 判断根拠・例外まで引き出せる |
| 所要時間 | 数週間〜数ヶ月 | 1セッション30〜60分 |
実務での進め方
AIインタビューを活用した外部化の進め方は以下のとおりだ。
- 対象者と対象業務の選定: 退職時期が迫っている熟練者、再現困難な業務から優先順位をつける
- 1セッション30〜45分に絞る: 集中力が保てる時間に区切り、業務テーマを1つに絞る
- 整理・構造化: AIが収集した回答を「状況」「判断根拠」「例外パターン」に分類する
- 後任による検証: 実際の現場で活用できるかを後任担当者が確認する
- 定期的なアップデート: 設備更新や工程変更のたびにナレッジを修正・追記する
製造業での活用事例
NTTデータと川崎重工業の取り組み
NTTデータは「インタビューエージェント」と「LITRON® Generative Assistant」を組み合わせたシステムを開発し、AIが熟練者にインタビューを行い、抽出した暗黙知を形式知として整理するアプローチを採用している。グラフ型データベースへの格納により、蓄積された知識の検索性も担保されている。
(出典:技術のバトンをつなげ!製造業の暗黙知伝承の最前線|NTTデータ)
機械加工メーカーでの設備調整ノウハウ移転
ある機械加工メーカーでは、熟練オペレーターが「音と振動で判断する加工条件の微調整」を言語化できずにいた。AIインタビューを導入したところ、「どんな音がするとき」「どの方向にハンドルを何回転させるか」という具体的な対応が言語化され、30種類以上の微調整パターンが文書化された。
これは、個人の暗黙知が外部化を経て形式知となり、組織全体で活用できる状態に変換された典型例だ。
まとめ
SECIモデルが示す知識変換の本質は、「暗黙知を放置すれば失われ、外部化を仕組み化すれば組織の資産になる」という点にある。
製造業における技術継承に問題を抱える企業は86.5%に上るにもかかわらず、対策を実施している企業はまだ少数だ。2025年を境に団塊世代の後期高齢者化が本格化するなか、SECIサイクルを意識した知識管理が急務となっている。
重要なポイントを以下にまとめる。
- 暗黙知は経験・感覚に根ざした知識で、自発的な言語化が難しい
- SECIモデルの4フェーズのうち、外部化(暗黙知→形式知)が最も重要で難しい
- AIインタビューは「問いかけ」を通じて、従来手法では引き出せなかった暗黙知を効率的に言語化できる
- 外部化した知識は構造化・検索可能な形で蓄積し、後任が実際に活用できるかを検証する
SECIサイクルを組織的に回す仕組みを持つことが、技術力の継続的な維持と強化につながる。
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